2012年7月30日月曜日

大阪ぎらい物語



「ぼんち」という古い映画(市川雷蔵・中村鴈治郎主演)があります。「ぼんち」とは「ぼんぼん」とも呼ばれる存在。ぼんち揚げというお菓子のことではなく、船場の若旦那さん、跡取り息子のことですね。「勘当や、出て行けーッ」とやられる放蕩息子のイメージにつながります。情熱のすべてを遊びに投げ込んで生きる。そのストレートさは爽快でさえあります。大阪のキタ、ミナミという呼称は、船場が基準になっていたようです。

井原西鶴の処女作「好色一代男」という傑作がありますが、これなどはHひとすじに生きたぼんちの最たる例でやっぱり爽快、こんな生き方、昔なら画家さんなんかが代表格です。商売には目もくれず、絵に投じた情熱と同じほど芸妓遊びに注ぐ。遊び方が半端やありません。いまでは絵画よりロックかも知れません。

「勘当や、出て行けーッ」」と言われた「ぼんち」が人力車の車夫になる。ここらがなんとも粋ですね。昨日まで遊んでた芸妓が道を歩いていたら、なじみの「ぼんち」がぷかぷか煙草ふかせて客待ちしてる。こうなると「ぼんち」は無形文化財になる。そのあたりの話を洋画家鍋井克之氏が随筆に温めているのが「大阪ぎらい物語」です。

この随筆をタイトルそのままに脚色され、名作に仕上げられたのが、有名な劇作家、館直志こと先代の渋谷天外氏です。松竹新喜劇で公演、藤山寛美さんが実生活そのまま?に演じたので味がにじみ出たことでしょう。



ついでに車夫の話をもうひとつ。
面白いのが紙屋五平原作の「車夫遊侠伝喧嘩辰」こちらは御荷物御車を旗印に、乗ったお客を荷物扱いする東京から流れてきた江戸っ子気質の車屋・辰五郎と浪花芸者・喜美奴の炎のような恋を綴った快作。この大阪のことを書く紙屋五平氏のことが知りたいのですが、よくわかりません。

自分がコンサルさせていただいていた企業さんにも、この「ぼんち」タイプの方が何人もいらっしゃいました。しかし仕事に面白さを覚えたら仕事に人一倍励むから面白いですね。「一途」というのは才能のひとつなんですね。

2012年7月15日日曜日

不死鳥、福井



戦争末期、米国は福井を徹底した空襲で90%以上焼き野原にしました。県庁所在地でここまで焼尽したのは数少ないと言います。お隣の金沢にはほとんど手をつけていません。
福井には紡績工場が多く、パラシュートを製造していると見られていたからです。
戦争が終わり、焦土と化したふるさとを復興しようと立ち上がった人々を、昭和23年(1948)、大震災が起こり再び人々を打ちのめします。やっとの思いで再建した家を失い、家族を失い、大切な人を失い、絶望に打ちひしがれました。悲劇はこれで終わりではありませんでした。翌昭和24年(1949)には、水害が福井を呑み込みます。三たび、叩きのめします。僅か5年ほどの間に東北大震災のようなことを3度体験したと考えてみてください。想像を絶する苦難です。
福井の人々は、それでも歯を食いしばって血のにじむ思いをして立ち上がります。そうして厳しい自然環境を受け入れて、現在の「幸福度全国ナンバーワン」と感じる「福井」を築いたのです。学力全国ナンバーワン、社長輩出率全国ナンバーワンのマンパワーの土台になっているのは、不死鳥福井の精神が風土として人々のDNAになっているからではないでしょうか?
福井人の魂の象徴として 、街の中心部の道路はフェニックス通りと名付けられていて、そこにはフェニックスホールもあります。東京で言えば武道館、大阪で言えば京セラドームのような存在で大きなイベントはここで開催されます。
大飯原発で揺れる福井ですが、大飯町は厳しい寒村、生きるために原発を誘致した歴史があります。名作「飢餓海峡」を書かれた作家水上勉氏は大飯の出身で、貧しさから9歳で京都の瑞春院に小僧として修行に出されています。生きるって大変なことだと感じる一方で、誰かが責任を引き受けなければ国は成り立たず、ひとりひとりが責任を引き受けない限り幸福な暮らしはないのだと感じる夏の夜の福井城址、お堀の灯りでした。

2012年7月14日土曜日

道頓堀の牡蠣船



道頓堀では芝居茶屋が繁盛しましたが、繁盛したのは地上だけではなかったようで、水上でも大いに賑わったといいます。その第一人者が広島からやってきた【 牡蠣船 】です。時は元禄、屋形船を岸につけて牡蠣料理を出し接待などに使われ繁盛したそうです。

いくら水上といっても勝手に営業することは当時をもってしてもできませんでした。それが可能になったのには物語があります。1708年のこと、大阪で大火が起こった時に、牡蠣船を考えていた任侠の人、甚左衛門なる人が牡蠣商人を集めて被災者の援助に力を尽くしたのです。この貢献に大阪奉行は応え川のあちらこちらで牡蠣料理を出すことを許可したのです。

昭和初期になると人気の牡蠣船にあやかってビヤホールまがいの船が出たり、一般の料理を出す船も出たそうですが、公の許可を得ていたのは牡蠣船だったので、トラブルにもなったそうです。

昭和40年(1965年)には道頓堀川改修工事が始まり、大阪市との間で立ち退き交渉が始まりました。当時8隻の牡蠣船があったそうですが、42年2月に最後の牡蠣船「かき秀」が解体され、ついに元禄以来250年も続いた歴史は終わりを迎えました。

その歴史の一端でも知っている人も今では少なく、やがて語り継がれることもなくなりそうです。一度は体験してみたかったですね... (◑.◑)

2012年7月13日金曜日

グリコの看板

道頓堀川、戎橋の横にグリコのネオンが設置されたのは、昭和10年、西暦1935年のことです。この看板は当時としてはびっくり仰天、33メートルの高さもさることながら、ランナーとグリコの文字が6色に変化するのに合わせて1分間に19回点滅するというゴージャスなもので、登場すぐに大阪ミナミの名物になりました。

悲しき戦争が始まり昭和18年(1943)厳しい局面を迎えると鉄材供出のために撤去されます。しかし戦後、ようやく落ち着き始め復興の勢いが出て来た昭和30年(1955)には、2代目が登場します。ネオンの下部には特設ステージが設置され、 かっての敵国から流れてきたロカビリーブームに乗ってロカビリー大会が開催され、浪花のプレスリーが大挙駆け上ったようです。

高度成長期に入った昭和38年(1963)、東京オリンピック前年には3代目が登場、12トンの水が150本のノズルから噴射され、さらに12色のランプ400個が 照らし虹を出すという噴水のついたネオン看板になりました。噴射された水は循環するといういよいよゴージャスなものでした。

1972年(昭和47年) 2月5日には4代目が掲げられ、 そして隣接するビルの改装に伴い1996年1月21日に消灯。その翌日から撤去されましたが、その後1998年(平成10年) の七夕前夜7月6日に5代目が登場し、現在に続いています。

2003年4月11日、道頓堀 グリコネオン (中央区) は、大阪市指定景観形成物に指定されました。他に同時に指定されたものは、次の・大阪市中央公会堂 (北区)、 お初天神 (露天神社、北区)、大阪城天守閣 (中央区)、 通天閣 (浪速区)、 一心寺 (天王寺区)、 住吉大社 (住吉区)など11ヶ所があります。




2012年7月12日木曜日

一寸六分の懐石料理

東京と大阪では微妙に違うものが沢山あります。
道頓堀に並ぶ、鰻屋、寿司屋、蕎麦屋などもそうで、ことごとく違います。たとえば寿司と言えば握り寿司を連想しますが、昔は違いました。寿司といえば両者ともに箱寿司だったのです。




ところが1820年代( 文政初年)に東京で変化が起こります。華屋与兵衛という人が握り寿司を考案します。この屋台の酢飯を手で握って作る握り寿司を、大坂では「そんなもん料理ではない。大坂は日本一の商売の街や、お金持ちがたくさんいる。そんなもん食うか。」と見下していました。大坂では箱寿司を「一寸六分の懐石料理」ととらえていたのです。

しかし江戸で誕生した握り寿司も徐々に広まります。1892 年(明治25年)になると大坂にも進出してきます。やがて大阪の寿司も大きく変わる時を迎えます。
1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災です。この後、東京の職人さんが大挙大坂にやって来たことから大阪の寿司事情も変わり始めたのです。握り寿司誕生から実に100年経っていました。

いまはなき中座の前あたりに「元禄寿司」さんがありますが、ここが回転寿司を日本で最初に考案したそうです。自分が学生の頃にすでに回転寿司やっていたのを記憶していますが、ここには「松川」という芝居茶屋の一軒があったそうです。