2013年7月23日火曜日

映画を見る理由




映画を見る理由を考えてみました。

最近見た途方もなく素晴らしいいくつかの映画。たとえば「フィッシャー・キング 」(アメリカ)「屋根裏のマリアたち」(フランス)を通して思ったことは、映画を見ることで選択肢が広がることです。

そういうと映画特有のメルヘンチックなもので現実的な選択肢ではないという意見が聞こえてきそうです。他者の声を聞くまでもなく自分の中から聞こえてきそうですが、実はそれが間違いで、映画の中にこそ真実があるからです。

思わず拍手したくなる感動とは、そういうことなのです。私たちは自分の思いは、思い通りにならないものとして我慢することを学びます。

それはとっても重要なことのひとつですが、それと引換に不快な現実を受け入れることに慣れているだけなのです。

私たちの間違いの多くは真実から目を背けることにあるのです。優れた映画はそれを正してくれます。




映画を見る理由




映画を見る理由を考えてみました。

最近見た途方もなく素晴らしいいくつかの映画。たとえば「フィッシャー・キング 」(アメリカ)「屋根裏のマリアたち」(フランス)を通して思ったことは、映画を見ることで選択肢が広がることです。

そういうと映画特有のメルヘンチックなもので現実的な選択肢ではないという意見が聞こえてきそうです。他者の声を聞くまでもなく自分の中から聞こえてきそうですが、実はそれが間違いで、映画の中にこそ真実があるからです。

思わず拍手したくなる感動とは、そういうことなのです。私たちは自分の思いは、思い通りにならないものとして我慢することを学びます。

それはとっても重要なことのひとつですが、それと引換に不快な現実を受け入れることに慣れているだけなのです。

私たちの間違いの多くは真実から目を背けることにあるのです。優れた映画はそれを正してくれます。


2013年2月9日土曜日

サウンド・オブ・ミュージック


サウンド・オブ・ミュージック
“すべての山を登り
流れを渡り
虹を追って夢を見つけなさい”




東京オリンピックの翌年、1965年の古い映画ですが見たのは最近。 第二次大戦中 のお話ということもあり、古さは全く感じません。 見終わった後にもう一度見たいと思う名作ミュージカルです。すべてが最高!劇場の大画面で見ないと製作に携わった人々に失礼だと畏敬の念を覚えました。
第二次大戦中、ナチス占領下のオーストリアを舞台にしたミュージカルです。原作はドイツ映画ですが、1959年にブロードウェイで開幕し、トニー賞のほとんどを受賞。世界中で愛されてきた名作です。
見たら多くの人々に愛される理由が分かりました。 ひとそれぞれ思いがあり、この映画のすごさは語り尽くせないほどあると思いますが、まずなによりも音楽の完璧さとロケーションとカメラワークの素晴らしさは、ゴジャース!の一言に尽きます。
そしてジュリー・アンドリュースの素晴らしさ!この人以外に考えられないと誰もが思うでしょう。オープニング、登場した途端に意味なく涙がこぼれる存在感!すべてが完璧です!子どもたちも素敵です。
「ドレミの歌」は特に有名で、なにかの機会にこの場面だけを見た人は多いと思います。それだけで見た気になっている。自分もそうでしたが、とてもとてもこの映画はそんなものではありません。なによりミュージカルというメルヘン性に反してこの物語が実話だということです。
監督はロバート・ワイズ。「ウエストサイド物語」の監督です。1920年代、動乱の中国を舞台に、アメリカ海軍砲艦サンパブロの水兵描いた「砲艦サンパブロ」も忘れるわけにはいきません。社会問題に潜む市井の人々の姿を娯楽性に上手に包んで見せるのが上手な方です。


駄曲が一曲もありません。「エーデルワイス」「マリア」を始め全曲がスタンダードナンバーと言っても過言ではない名曲の宝庫です。
主人公マリアは1905年、オーストリアの首都・ウィーンで誕生。生後すぐに母親を亡くし、父親の手で親戚の家に預けられます。その父親もマリアが9歳のときに他界、マリアはウィーンにある全寮制の国立師範学校に入学します。師範学校の最終学年のある日、アルプスの美しい山々に囲まれて過ごしていたとき、突如として"神に仕えたい"とカトリック信仰に目覚めます。学校を出て、ザルツブルクにあるノンベルク修道院の修道女となったのは、マリアが20歳のときでした。物語はこの場所から始まります。



2月7日 、アメリカが北ベトナム爆撃開始。
2月21日 には黒人運動指導者マルコムXが暗殺されました。
  • テンプテーションズ「マイ・ガール」
  • ローリング・ストーンズ「サティスファクション
  • ビートルズ「イエスタデイ」
  • ボブ・ディラン「ライク・ア・ローリング・ストーン」
がヒットし、国内では植木等の「ゴマスリ行進曲」「遺憾に存じます」が人気でした。

この年、陽気なアメリカは姿を消しつつありました。暗雲漂うアメリカ、上げ潮の日本。やがてジャパンパッシングが起こる前夜だったのです。

2013年2月8日金曜日

いつでも夢を




昭和37年(1962年)のこと、007シリーズ第一作が公開された年です。

当時人気絶頂だった橋幸夫と日本一のアイドル女優、吉永小百合。共に歌手としてはビクターに在籍し、作曲家吉田正の秘蔵っ子。この条件で二人のデュエットが実現しない方がおかしい。

東京オリンピックも決定。日本は本格的にエンジンがかかり、急速に高度成長期に突入。
この年、8月12日には、堀江謙一氏が小型ヨット「マーメイド号」による西宮-サンフランシスコ間の太平洋単独横断航海に成功。パスポートを持たない密出国でしたが、上陸するとサンフランシスコ市長らから大歓迎を受け、偉業に対する寛大な措置で1カ月の滞在も許されたのです。

♬ 星よりひそかに 雨よりやさしく
  あの娘はいつも歌っている
  声がきこえる 淋しい胸に
  涙に濡れたこの胸に
  言っているいる お持ちなさいな
  いつでも夢を いつでも夢を
  星よりひそかに 雨よりやさしく
  あの娘はいつも歌っている 

  歩いて歩いて 悲しい夜更けも
  あの娘の声は 流れ来る
  すすり泣いてる この顔上げて
  きいてる歌の懐かしさ
  言っているいる お持ちなさいな
  いつでも夢を いつでも夢を
  歩いて歩いて 悲しい夜更けも
  あの娘の声は流れくる

  言っているいる お持ちなさいな
  いつでも夢を いつでも夢を
  はかない涙を うれしい涙に
  あの娘はかえる 歌声で
  あの娘はかえる 歌声で


誰でもが覚えやすく明るいメロディーとウルウルの歌詞。人気絶頂のデュエット「いつでも夢を」は日本人の心に響き、応援歌の役割を担ったのです。「いつでも夢を」は大ヒットし、日本中を明るくしました。

「いつでも夢を」映像はステージから。


歌のヒットを受けて、吉永小百合とコンビを組んでいた浜田光夫に橋幸夫が加わり映画化されました。

東京下町の工場地帯、ピカちゃんの愛称で呼ばれるひかるは貧しい人たちの味方として頑張る三原医院のナースだ。今日も健康診断で森田製作所を訪れたひかるは工員たちの人気者。夜間高校で机を並べる工員、勝利との仲を冷やかされている。森田製作所へ出入りする新入り運転手の留次もひかるに心を奪われる。

ある夜、定時制高校の帰り道、肩を並べて歩くひかると勝利。勝利の口ぐせが始まる。「オレはスカッとしたサラリーマンになるんだ」しかしひかるはちがう。「幸せってもっと身近に転がっているんだわ」

一方、留次は休診の日を狙ってひかるを誘うが振られてしまう。ひかるには勝利との約束があったのだ。三人の関係はどうなっていくのだろう。

「いつでも夢を」映像は映画から。

2013年2月7日木曜日

ウッドストック・ミュージック&アート・フェスティバル


60年代後半にはベトナム戦争介入の泥沼化を背景に、サーファー、サイケ、ロッカー、フォークなど大量の人が混然となって逃げ込むようにビート・ジェネレーションのメッカであり、カウンター・カルチャーそのものである「サンフランシスコ」になだれこむ。
それはやがて大きなうねりとなり、ヒッピーとなり爆発する。


暴力的に追い込まれ、凶暴で無意味な日常に不安は高まり、刹那的にドラッグによる幻想へ逃げ込む。
しかしそれが現実的な解決をもたらすわけもなく、悲しみはますばかりだ。

そこには、デニス・ホッパーが名作「イージー・ライダー」で見事に切り取って見せた世界がある。

ニューシネマと呼ばれる作品だ。60年の終わりから70年代はじめにかけて、「卒業」「真夜中のカウボーイ」「M★A★S★H]「いちご白書」「ファイブ・イージー・ピーセス」「俺たちに明日はない」「明日に向って撃て」などが体制に反逆するアンチ・ヒーローが相次いで創造され、映画館のスクリーンに投影された。


路上には「NO NUKES!(核反対)Tシャツはホワイトボードとなり、プラカードが行進する。いい知れぬ不安と苛立ちはサンフランシスコ発ヒッピーのロックとなって世界にインパクトを与えた。

ビート・ジェネレーションの地。1967年、花の「サンフランシスコ」、夢の「カリフォルニア」が中心になったのは当然のことだ。ここしかなかったのだろう。



ロックとフォークの融合、それにロンドン発のサイケが加わり、ヒッピーの手によってカラフルな古着が流行する。
そしてロックはメッセージを伝える道具になり、こどもの視点で世界を観ることがコアになった。

自由になろう!花を着よう!楽しもう!フラワー・チルドレンの社会の実現へ向けて「自然に還ろう」というメッセージが反戦機運の高まりとともに広まっていく。

67年、モントレーの広大な土地を利用して五万人を集めたロック史上初の野外ロック・フェスティバルが開催される。
ジミ・ヘンドリクス、ポール・サイモン、ジャニス・ジョプリン等、全員がノー・ギャラで参加した。決定的にロックは変化した。暴力的に追い込まれて変化するしかなかったのだ。









”I HAVE A DREAM”そして”LOVE&PEACE”

1968年4月マーティン・ルーサー・キング牧師がメンフィスのロレイン・モーテルで暗殺される。さらに6月ロバート・ケネディ上院議院暗殺。

その年のクリスマス、ロックンローラー
エルヴィス・プレスリーが復活する。エルヴィスの『 COMEBACK SPECIAL』がテレビ放送され、全米70%を超える視聴率をゲットした。I HAVE A DREAMはキング牧師の有名な言葉だったが、エルヴィスは呼応するようにIF I CAN DREAMで番組を締めくくった。



その翌年、1969年8月15日、ニューヨーク州の郊外ウッドストックで空前の野外コンサート「ウッドストック・ミュージック&アート・フェスティバル」が開催され、3日間に45万人が参加した。

社会史の教科書にも出てくるコンサートにはザ・バンド、ジョーン・バエズ、ザ・フーらが参加した。

当初18ドルだった入場券はあまりの人の多さに、「勝手にしゃがれ」状態になり無料となる。大学生らが仕掛けたビジネスは収拾不能になり、フラワーチルドレンの大集会に変身したのだ。


激しさと寂しさ、そして混乱。
…………大雨、死者、赤ん坊、麻薬、ライフラインのトラブル。

それでもLOVE&PEACEに満ちた3日間はアメリカン・カウンター・カルチャーの檜舞台となった。
しかしアメリカン・スピリットの真髄は路上、ストリートにあることを実証するかのように、コンサートが終わると45万の孤独がウッドストックから吐き出され路上に溢れた。

 

アメリカは50年代の建国以来のピューリタン的思想の弱体化と停滞、既成の価値感を粉砕したロックの誕生。60年代ニューフロンティアを訴えたケネディの登場と死。
そして明るかったアメリカはベトナムの砲火とともに暗雲が覆う70年代に突入した。

2013年2月6日水曜日

グリコのワンタッチカレー





フランク・シナトラ似のシェフのイラストが書かれたパッケージ。グリコのワンタッチカレーは、1960年(昭和35年)に発売されました。
チキンラーメンのヒットがあり、インスタント時代の始まりでした。家庭でも即席の商品を使い始めていました。


レトルトや冷凍食品が豊富な現在では、この即席の意味が現代人にはよくわからないと思います。当時のカレーは固形のもの、包丁で削って料理するのが普通だったからです。

そこでグリコから販売されたワンタッチカレーのワンタッチが意味を持ちます。いまではどのメーカーも採用していますが、グリコのワンタッチカレーはプレート状の固形カレーをそのままなべに入れれば溶けたからです。





江崎グリコ 常備用カレー職人 (中辛) 180g×10個


グリコはカレーメーカーではありませんでしたが、味も子ども向けの甘口と大人向けの辛口の2種類を開発、簡単な調理方法で、家族みんながおいしく食べられるところが受けて、大ヒットしたのです。TVCMの映像は63年のものです。

この年、ダッコちゃんが大ブーム。アメリカでは”キング・オブ・ロックンロール”エルヴィス・プレスリーが兵役を解かれカムバック。国内では12月に石原裕次郎が女優の北原三枝さんと結婚し、大きな話題になっています。石原裕次郎は北原三枝さんとの結婚を望んでいましたが、当時は映画スター同士の結婚はタブーとされていたため会社側に反対され、1月に北原三枝と共にアメリカへ出発するという実力行使したのです。




ワンタッチカレーで培った高い技術は、現在も継承されています。当時を懐かしむ人々の期待に応えてワンタッチカレーは復刻版がグリコからネット通販されています。



現在ではプレミアム熱カレーに伝承されているようです。

20種類の食材と、じっくりと500時間かけて熟成したというスパイスを使用しているせいか、大人の味覚とこだわりを満足させられる上質なバランスがとれた深い味わいのスパイスの効いた味が特徴。値段で買うならボンカレー、味で買うならプレミアム熱カレーと決めています。













2013年2月5日火曜日

花と嵐とギャング



大阪の下町「阿倍野区昭和町」にBOSTONというハンバーグレストランがあります。人気店です。界隈には町家を活かしたレストランが並び楽しませくれます。


BOSTONはなんばにも出店されていますが、やはり本店でいただくのが雰囲気も楽しめるのでGOODです。東映のギャング映画に出てきそうな店構えです。


創業は1952年で、当時では珍しい音楽喫茶だったそうです。洋食屋を経て2007年ハンバーグレストランとしてリスタート、昭和町本店では、創業当時の雰囲気を味わえるような音楽とインテリアの中、オープンキッチンで目の前で焼かれるこだわりハンバーグを楽しむことができます。
でもよくよく考えてみると、人と食べているときは相手の方のことや会話に意識がいき、ひとりで食べているときは考え事をしています。

つまり食事そのものを楽しむ機会が非常に少ない人なんですね。実にもったいないことですね。結局、何を食べていても同じなので早くて安いが一番なのです。なるほど

BOSTON昭和町本店では、創業当時らしい音楽が響いていました。


ところで1952年と言うと、随分古いですね。エルヴィスと時々、複数のロッカーたち。というブログで、歴史を振り返っていますが、ここで取り上げているのはプレスリーのデビューから永眠までの期間なので、該当しません。だからBOSTON昭和町本店で流れていた創業当時らしい音楽というのも錯覚で、実際には60年代の音楽だったような気がします。

なにしろ店内は満席だったので、音楽も上乗せでした。店構えが東映のギャング映画に出てきそうと言いましたが、「花と嵐とギャング」という映画あります。主演は高倉健さんで、この作品でスターだったけどいま一歩だった健さんが変わったと言います。監督は石井輝男で東映での初仕事。カルトの巨匠です。1965年から始まった「網走番外地」シリーズのコンビです。健さんは石井監督の石碑を網走に建てたそうですが、是非ともいつか見に行きたいと思っています。



花と嵐とギャング」という映画は比較的最近ロフトにある名画館で見ました。古い映画なのになぜか白人の方も鑑賞されていました。どこでどういう情報を仕入れて来られたのか気になったものです。画像は花と嵐とギャング」での鶴田浩二さんの写真と歌「抱擁」(映画とは無関係)です。

BOSTONの佇まいは、とても質素です。ネオンとかなく建物にダイレクトにBOSTONと書かれています。いい雰囲気です。







2013年2月2日土曜日

性生活の知恵




性生活の知恵 (1960年) 

謝国権によるハウツー本謝国権(2004年他界)氏は台湾出身の三男と生まれた日本の医師産婦人科)である。医学博士奈良林祥ドクトル・チエコとならぶ日本の性医学評論のパイオニアとして知られる。

1960年(昭和35年)に池田書店が出版。売れに売れ、版元の池田書店は自社ビルが建ったというベストセラー。

同書を原作として1961年(昭和36年)に大映東京撮影所が劇映画として映画化しています。映画は、当時の「映画倫理管理委員会」が成人映画に指定し、18歳未満の鑑賞を制限した。1時間程度のB級作品ながら、続編も制作された。ピンク映画のヒットが1963年なので、その前夜的な作品だったのかも知れません。

性生活の知恵
  1. 第一章 結婚と性生活 - p.19
  2. 第二章 男性と女性の性生理 - p.28
  3. 第三章 性交への誘い - p.49
  4. 第四章 性交とその態位 - p.59
  5. 第五章 性交との訣別 - p.124
  6. 第六章 男性のために - p.127
  7. 第七章 女性のために - p.170
  8. 第八章 青年期の性 - p.219
  9. 第九章 家族計画の必要性 - p.244
  10. 第十章 妊娠しない期間の見つけ方 - p.253
  11. 第十一章 受胎調節法の実際 - p.260

続 性生活の知恵


  1. 第一章 これからの性教育 - p.13
  2. 第二章 これからの性生活 - p.81
  3. 第三章 疲れない性交態位 - p.127
  4. 第四章 初夜の不成立を避けるために - p.188
  5. 第五章 新しく寝室を作る人のために - p.253

なぜこの書籍がそれほど大ヒットしたのか、その意味は文化的に重く、農耕社会特有の言い伝え文化の終焉と核家族化の始まりだった。その歴史はいまも継承されABCクッキングの成功とも無縁ではないのではないでしょうか。その意味で 「スポック博士の性教育」とは趣が異なる。

スポック博士の性教育(1975年)

スポック博士の性教育 」原題はティーンエイジャーのためのライフとラブの手引きですが、暮らしの手帳社を経由すると雰囲気が変わってしまいました。「スポック博士の育児書」はいまもロングセラーを続けていますが、こちらは現在新刊で入手はできません。

それにしても生きることの中心に愛とセックスを据えたスポック博士の脳には性教育というおごりはありません。自分の頭で考えうる愛に満ちた生活を大切にしてほしいと願いをこめて書かれた一冊。


愛に満ちた生活を当たり前のことと捉えている点で、発刊当時は十代の若者より大人にとってセンセーショナルだったかも知れません。高度成長期の大人にとって次元の違う生き方の提案だったからです。





2013年2月1日金曜日

何でも見てやろう


自分が信用しているジャーナリストは、辺見 庸と小田実のご両名に尽きる。

小田実氏はすでにいないが、氏が遺した旅行記「何でも見てやろう」(河出書房新社)は1961年の大ベストセラー。まだ子どもだったので当時は読んでいませんが、それでもタイトルだけは記憶にあります。それほどこの書籍は有名でした。

関係ありませんが、翌年には、当時見たこともない人だった石原裕次郎が日本縦断ロケした「憎いあンちくしょう」が公開されていて、子ども心になにか変わって行く気がしていて、時代が動く印象が強く残っています。


▲石原裕次郎の昭和映画

小田実氏のブログには「何でも見てやろう」についてこう書かれている。


たしかにアメリカ合州国から始まって世界大にひろがった旅は、私の思考、人生に大きく風穴をあけた。そこから風は激しく入って来て、余分なものを吹き飛ばした。私はそれを書いた。

何でも見てやろう



▲小田実 遺す言葉

上海事変が勃発した1932年、大阪福島に生を受けた著者が、若さと知性と勇気で敢行した体当り世界紀行。アマゾンでは次のように紹介されています。

留学生時代の著者が、笑顔とバイタリティーで欧米・アジア22ヶ国を貧乏旅行して、先進国の病根から後進国の凄惨な貧困まで、ハラにこたえた現実を、見たまま感じたままに書いたベスト&ロングセラーの快著。

東大文学部を卒業後、1958年にフルブライト奨学生として渡米した正真正銘の元祖バックパッカーが、冷静、かつ客観的にきちんと世界をくまなく見た上で「自分の頭で」ものごとを考えることを通して、見たままの世界を書いています。主義主張はともかく、小田氏は「傍観者」「批評家」ではなく、「ベ平連」などの平和運動で陣頭に立つ「活動家」になった。

2013年1月31日木曜日

日本初のカラー長編アニメ映画『白蛇伝』


1958年10月22日に全国劇場公開された日本最初のカラー長編アニメ映画『白蛇伝』は、 人と妖の恋愛を語った中国の民間説話を題材とした見事な作品。

その質の高さに目を見張る。東映東京撮影所内に作った東映動画スタジオで制作、長期間の時間をかけて丁寧に丁寧に作ってある、意欲と良心の結晶は当時のディズニーにひけをとらない。

パンダがこの作品を通じて日本人の前に登場した。声の出演者として今は亡き名優.森繁久彌氏が参加。この作品に賭けた並々ならぬ熱意が伺える。

この作品に続き 安寿と厨子王丸、西遊記、少年猿飛佐助などが制作された。

この時期にまだ宮崎駿は参加していないが、動画への情熱を燃やす磁力がある。


白蛇伝 映像はこちら


2013年1月29日火曜日

星は何でも知っている


1958年とは、海の向こうでは1956年にメジャーデビューし、その存在が大事件となったプレスリーが軍隊に召集された年だが、日本ではおもちゃ箱をひっくり返したように大変なことになった年である。

プレスリーの和製亜流が大ブームとなった「ウエスタンカーニバル」を筆頭に、初代若乃花の大活躍/長嶋茂雄選手デビュー/チキンラーメン/こだま/スーパーカブ/スバル360/フラフープ/野球盤/グリコアーモンドチョコレート/週刊女性自身/関門トンネル開通した。

さらに、赤胴鈴之助/月光仮面ロッテ歌のアルバム/事件記者/パパは何でも知っている/モーガン警部がヒット。映画では嵐を呼ぶ男/風速40米/ 歌の世界では♫おーい中村君/ダイアナ/星は何でも知っているが大流行し、イカす、シビれるが流行語になった。

<星は何でも知っている>は、和製プレスリーとして大人気だったロカビリー歌手の平尾昌章が歌って大流行した

1958年製作の日活映画星は何でも知っているの主題歌に起用されたそうだが、映画が先にあったのか、歌を映画化したのか不明だ。しかし平尾昌章初主演映画とあるので多分歌を映画化したのだろう。

この歌はよく耳に入って来た。というのは、当時はスーパーマーケットはなかったが代わりに公設市場がどこの町にもあり、流行歌が流れていた。子どもが流行歌を耳にする場所として公設市場はもっとも一般的な場所でなかったのではないだろうか。

そのなかでも星は何でも知っている>は鮮烈で♫ 生まれて初めての甘いキッスに胸がふるえて 泣いたのを ♫の一節が印象的だった。



画像をクリックで音楽再生

♫ 星は何でも 知っている
ゆうべあの娘が 泣いたのも
かわいいあの娘の つぶらな
その目に光る 露のあと
生まれて初めての 甘いキッスに
胸がふるえて 泣いたのを

「あの娘を泣かせたのはおいらなんだ。
だってさ、とってもかわいくってさ、
キッスしないでいられなかったんだ。
でもお星さまだって知っているんだ。
あの娘だって悲しくて泣いたんじゃない。
きっときっと、うれしかったんだよ。」

星は何でも 知っている
今夜あの娘の 見る夢も
やさしいナイトが あらわれて
二人でかける 雲の上
木ぼりの人形 にぎってねむる
若いあの娘の 見る夢を♫

2013年1月28日月曜日

七色仮面


最高視聴率 67.8%(東京地区)、平均視聴率40%、というモンスター番組「月光仮面」だったが、真似をした子ども達の事故が相次いだため、アクションシーンを減らすなど調整をしながら継続したが、その責任を追及された形で原作者川内康範氏が訴訟されるに至って番組制作は困難な状況に追い込まれ2年で終了となった。

その後を継いで1959年6月3日に登場したのが東映のドル箱映画「多羅尾伴内」シリーズを下敷きにした「七色仮面」だ。

♫デンデンとろりこ やっつけろ♫

東映が生み出した『七色仮面』は最初から劇場公開も兼ねることを前提に破格の製作費で制作され、出演者も映画畑の俳優で固められ丁寧な作りでアクションも迫力があった。第5部から二代目「七色仮面」として千葉真一が主演した。

内容的にも現代日本を予告するようなドラマになっていて大人も楽しめる質の高い子ども向け作品となった。

尚、「多羅尾伴内」は川内康範氏が考案したものではないが、同氏が創り出した「銀座旋風児シリーズ(小林旭主演)」も多羅尾伴内」をベースにしていて、日活を退社した小林旭氏が多羅尾伴内」シリーズを継承したのは面白い因果関係だ。






2013年1月27日日曜日

怪傑ハリマオ

2月11日は森下仁丹の日。仁丹提供で1960年代に放送された「怪傑ハリマオ」は昭和初期にマレー半島で活動した実在の人物(谷豊氏)に着想を得ている。

福岡県福岡市南区出身で、2歳でマレーシアに渡った後に惨殺された妹の復讐心から華僑相手に盗賊となりハリマオとして伝説の義族として存在した。
その後、日本陸軍の諜報員となって活動したが、病に倒れる。生涯マレーを愛したと言われている。90年代終盤、再評価が高まりその足跡の調査が行われた。


月光仮面





♫ 月の光を背に受けて〜

昭和33年~34年(1958年~1959年)にテレビ放映された月光仮面。

川内康範 脚本の時代劇の番組スポンサーだった武田薬品の降板をなんとか食い止めようとして、急遽企画されたのが始まりで、桑田次郎絵による漫画化、テレビ化、映画化の順で日本に於けるテレビ初の子ども向けヒーロー映画として空前絶後のブームとなった。局は当初東映に制作を依頼したがコストが合わず相手にされず、結局 KRテレビ(現・TBSテレビ)と宣弘社が制作、東映は劇場版を制作し全国公開した。

まだテレビが普及していなかった時期の作品だったので、絶対数では劇場版で実写を見た子どもが多く、テレビ版を見たのはシリーズ途中からのファンが多い。

【感受性の強い子どもにとって、メンコで見ると劇場版とテレビ版の違いは一目で判断がついた。】いまも思い入れが人によって違う。劇場版で列車を追い越すシーンはいまみてもカッコいい。

月光仮面の発想は忍者をオートバイに乗せたイメージから成り立ち薬師如来の脇に侍する月光菩薩から得られた。善玉悪玉共に覆面をしていたのは役者を使わずに撮影できるという苦肉の策だったが、風呂敷とタオルで走り回る子どもたちには知ったことではなく、やがて高度成長期の日本を牽引した。



  • 第1部 どくろ仮面篇 全71回(1話のみ30分、2話以降10分の帯放送だったため)
  • 第2部 バラダイ王国の秘宝 全21回
  • 第3部 マンモス・コング 全11回
  • 第4部 幽霊党の逆襲 全13回
  • 第5部 その復讐に手を出すな 全14回

平均視聴率は40%、最高視聴率は67.8%(東京地区)を記録。『月光仮面は誰でしょう』のレコードは当時の子ども向け楽曲としては異例の10万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。

しかしこの空前の大ヒット作は、月光仮面の真似をした子ども達の事故が相次ぎ原作者の川内康範氏が訴訟されるに至って、放送打ち切りに追い込まれた。